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『ザ・シューター』レビュー(コラム) |
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(ネタバレあり)
2002年、ドキュメンタリー映画監督、マイケル・ムーアは『ボウリング・フォー・コロンバイン』で声高にアメリカの銃社会を批判した。この映画はアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を始めとし、世界の映画賞を数多く受賞し、多くの者の賛同を得た。
多様な意見があるのが、アメリカであり、自分の考えとは違う意見をも評価する寛容さを持ち合わせる国でもあるが、『ボウリング〜』とは対極の精神を持つ映画を作るには、五年もかかったようだ。
それがこの『ザ・シューター 極大射程』である。
では、この映画、銃愛好者から無条件に賞賛を得られたかというと、そうではないと思う。 それは、その表現があまりにも露骨すぎるからだ。
この映画のラスト数分前の次のシーンを実際に見てもらえば、いいたいことが分かってもらえると思う。
ここでは文字で再現してみよう。
それは悪党を捕まえたあと、主人公、司法長官を含めた関係者が悪党の処分について話し合うシーンのこと。悪党のひとり、ダニー・グローバー演じるジョンソン大佐は、問われている犯罪行為は外国で行なわれたことであり、アメリカではその罪は問われない、と大手を振ってその場から出て行く。
司法長官は黙ってそれを見過ごし、その姿に憤る主人公の傍へ行き、こう語りかける。
「私も君と同様、腹が立っている。だが、これが現実だ。正義が勝つとはかぎらん。銃で片づく開拓時代とは違う。そんな方法も時には必要だが……」そして主人公とアイコンタクトを交わす。
次のシーン。主人公のボブ・リー・スワガーは銃を片手に悪党の家に押し入り、そこに居合わせた悪党一味を全員銃で殺害する。さらに仲間同士が撃ち合ったかのように偽装工作して、その家をガス爆発させる。そして主人公は燃える家を背に悠然とその場を去っていく……
私はこのシーンを見たとき、正直背筋がゾッとした。これではまるで司法長官が主人公に銃殺を認めたのと同じではないだろうか。直接、口にはしてはいないものの、あの台詞のあとのアイコンタクトには、明らかにそのニュアンスが存在する。つまり法を守る代表格である司法長官が、法で裁ききれない者を銃で殺害してもよいと許可したのである。これはやりすぎだ。
たしかにアクション映画では悪党は殺されるものだし、そんな映画は掃いて捨てるほどある。だがあのシークエンスは度を越している。あの世界が現実のものになれば、もはや法治国家とはいえない。法の目をかいくぐって犯罪を犯す悪党の方が可愛げがあるというものだ。
この映画を見た純粋な子供の中のひとりが、悪党は自分で殺さなきゃ、と結論づけてもおかしくない。
ちなみに原作の方はというと、このようなシーンはない。悪党の大半は、裁判にかけられていく。(大佐は取引の際、殺されるが)
原作者はピューリッツァー賞の受賞者でもある、映画評論家のスティーブン・ハンターである。原作の『極大射程』は宝島社の「このミステリーがすごい!」2000年の海外部門で一位となった作品だ。
なぜ「ミステリー」に分類されているかというと、この小説が陰謀を解き明かす探偵小説の趣も備えているからである(映画は完全にアクションオンリーだが)。小説の方は人間ドラマが描かれており、それが交錯するストーリーが秀逸な作品だ。わたしの好きな小説のひとつである。
ラストシーンが異なれば、かなり印象が異なるものである。原作でも多数の死者が出るのだから(映画以上に)、銃使用の是非に関して、五十歩百歩ではないかといわれるかもしれないが、やはり越えてはいけない一線というものはあると思う。たとえ、それがただのアクション映画であったとしても。
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